▼ プラチナ彩

制作の意図について

プラチナ彩を造り始め て20年程になる。
それ以前はプラチナではなく、銀で彩色していた。
しかし、銀は年月が経過するうちに酸化し黒ずんでくるため、造った当時の銀の輝きがなくなり、どうすれば最初の輝きを保てるかを考えている時に、プラチナの存在を知った。
その後はプラチナを使って作品を造り始め、「プラチナ彩菊図蓋物」はその一つである。
この作品は、まず粘土で蓋物の原型を作り、石膏で型を取り、その型に粘土を入れて成型する。粘土の柔らかいうちに、菊の模様を 盛り上げ乾燥させた後、800度前後で素焼きをする。
その後、上薬をかけて1250度前後で本焼をする。出来上がった蓋物の表面に プラチナを塗り、780度で焼きつける。プラチナの色がむらのなくなる まで、その工程を3,4回繰り返す。その上から彩色を施し、焼き上げた 上に、金で菊の模様を焼きつけた。
粘土で菊の部分を盛り上げているので立体感が出、秋を感じるような色彩が、光の加減で変化するように表現できればと考えて 作陶した。
(理光氏談 )

▼ 略歴

紀太 理光

昭和22年 高松市中野町に出生。
      紀太家は江戸時代、高松藩の御用      焼物師であり、御庭焼・理平焼       13代 の実弟である。
昭和41年 高松工芸高校 漆芸科卒業
昭和44年 京都府立陶工職業訓練校卒業。
      同年、元日展作家 手塚 央氏・      手塚 充氏に師事。
昭和47年 13代・理平と作陶。
昭和51年 独立し「冨田焼吉金窯」を創窯。
昭和55年 新工芸展 入選。
昭和56年 研修にて 芸術院会員 故・河合 誓徳氏に師事。
昭和64年 日展 入選。
平成 2年 新工芸展 入選・入賞。

▼ 富田焼吉金窯

吉金1 富田焼きの由来

四国高松から東へ約五里、阿讃山麓の丘陵地帯に位置する大川町富田は良質の陶土を産し、江戸時代、焼きものの里として栄えたところであった。
もともと讃岐は、古くから製陶の盛んな国として知られ、正倉院の記録によれば、すでに奈良時代から特産物として、朝廷に焼きものが納められている。
江戸時代には、讃岐お国焼として、理兵衛焼、源内焼、冨田焼、屋島焼、讃窯などが名声を高めた。
なかでも理兵衛焼は、高松藩祖 松平頼重公が京都より招いた森島作兵衛が、慶安二年、紀太理平衛と改名し創窯。
富田の陶土を用いて、優美な色絵陶器を焼成した。

吉金3 享保三年、四代目理兵衛 が富田に窯を持ち、富田印の美しい色絵陶を残した。
天明、寛政年間に、このあとを受けて、平賀源内高弟の赤松松山が、南京染付を中心とした富田焼を焼成し、ついで化政期から天保年間にかけて、富永助三郎が多くの焼物師たちを指導しながら日用雑器を大規模に焼いている。
県指定史跡「冨田焼吉金窯跡」は、この時期のものである。
昭和五十一年春、理平焼十三代の実弟 紀太理光が、始祖ゆかりの富田の地に陶房を築き、富田焼吉金窯を再興した。